どこかゆったりとしつつも、一方でやはりなにかせわしないような元旦の都内。大晦日のパーティ疲れで酒が抜けきらずに重い身体を引き摺っては新幹線に飛び乗り、雪深い郷里へと向かう。
ちなみに我が故郷では蒸気機関でなくとも線路を走る車輌は汽車であり、地域柄と温暖化もあって実際そんなに雪深くはない。言いたかっただけ、どうやら蛇に足が生えたようだ。
さて、そんな連日の酒が抜けきらず体調の芳しくない頭でぼんやり、暗く冷たい外の風景を眺めていると、つい数年前の正月のことを思い出した。実家のある集落では正月の時期に、村の青年団が太鼓を叩き、笛を鳴らしながら獅子舞を担いで一軒一軒家々を回り、新年の安寧と繁栄を願って舞を奉納する。
神社の隣にある我が家は朝8時頃なので気にしたことはなかったが、昼過ぎに出掛けてすっかり暗くなった頃に帰宅すると丁度、獅子舞の一行が神社に戻るところに鉢合わせて驚いたことがある。よく考えてみれば当然だ。かつて50軒少々、高齢化による自然減少の現在でも40軒に満たぬ程度を一軒一軒回れば、家々の間の移動と諸々の挨拶込みで仮に15分程度としても600分、つまり10時間は必要とする。これに昼休憩一時間と午前午後に30分ずつ休憩を合わせて12時間だ。酒を勧めたがる家庭もあれば、世間話の延びる家庭もあるだろうし、さらに1時間2時間は容易く延びるのは想像に難くない。
奉納されてある絵馬を見たかったこともあり、暗くなって帰ってきた獅子舞一行に便乗して数年振りに神社の拝殿に入ると、まあ飲んで行けということで、御相伴に預かる。なんせ小さな集落なので獅子舞を担う青年団も半分以上は顔見知り、誰かの兄貴であったり父親であったり、広い意味での村の諸先輩方なわけだ。ちなみに便宜上、青年団と呼ばせて頂いたが、とりあえずは行事の保存会であり、また人により消防団であり、また人により集落の自治会の執行委員であったりもする。
そこで当然言われるのは「そろそろ帰って来ないのか?」ということ。
長らく言われている通り、既に人口の3分の1は高齢者、2020年中には存命の日本人女性の半分が50歳を超えるという。当然それは日本全体の平均なわけで、地方の中でもそのような農村集落においては比率はもっと深刻だ。正直な話、小学生がまだその村に存在していたという事実に驚きを隠せなかったことがあるくらいだ。
そのような村落社会に於いて、都会では想像もできないほど深刻なのはやはり若い労働力なのである。若い、とは言っても高齢化の深刻な限界集落予備軍の村で求められるのはあくまで健康な労働力としての若さのこと、健康なら定年後の60代でも十分に若い労働力たり得るのだ。
これを人生100年時代と捉えるか老老介護と捉えるかは各々の感性に任せることにする。
しかし農村部の実家に残った人間にとって何より厄介なのは持ち回りでやってくる消防団の賦役だ。一度入団したら最後、新しい人員が確保されないまま退団することは許されないというどこぞの怪談のような話であって、先行きの見えぬまま私的な時間の浪費の永続が確約されることになる。
※人数規定は必ずしもなく、内容証明など法的に辞退の対処は可能
ところで消防組織法に基いた条例で市町村に設置される消防団、団員は報酬の支給される非常勤地方公務員に該当する。しかし実態として自治体から個人に直接ではなく分団にまとめて支給されるケースは少なくないようで、どこもかしこもなり手がいないというのはこの辺にも問題がありそうだ。
つまり労働力と本来支払われるはずの報酬とを二重で搾取されかねないのが消防団の実態である。
そもそもで農村部では良くも悪くも貨幣経済が完全に成立していない部分がある。余った野菜だったり労働力的な物理的助け合いだったり、それ自体は必ずしも否定しない。しかしそれは非常に脆く歪みやすい性質のもの。
そして田舎ほど「時間=金」という認識が意図してかせずしてか甘い、非常に甘すぎる。万が一そこに悪意が付け込めば、時間泥棒どころか時間強盗をいとも容易く生み出し、感謝ベースの労働力提供ではなく、強制的かつ義務的な労働力搾取となる。
帰って来ないかと言った彼は遠い目で言った。
「だって誰かがやらないといけないことだから…」
確かにいざという災害の初動と地域ネットワークによる消防団の存在意義は大きい。
しかし衰弱死を待つ限界集落の生命維持装置としての自己犠牲が後になって報われるとは筆者は到底思えないのだ。
時代と共に移り変わる現実の変化に対応しようとせず、習慣とか伝統とか、みんなそうしてきたとかいう訳のわからない理屈に自分の人生の一部を消耗することに果たしてどれだけの価値があるというのか。
勿論やりたい人がやりたくてやる分には否定しない、それこそがボランティアというものだから。